SNSの「つながり」は幻想だった?1冊の本が暴く巨大
プラットフォームの欺瞞

Facebook(現Meta)を“告発”する内部者の声が、ついに公の場に現れた。元グローバルポリシー責任者・サラ・ウィン=ウィリアムズ氏が記した暴露本『Careless People』は、かつての理想主義とその瓦解、そして企業の無関心がもたらした深い社会的損失を赤裸々に描いている。
彼女はただの告発者ではない。ニュージーランドの外交官としての経歴を持ち、信念に基づいてFacebookに入社した「理想家」だった。そんな彼女が目の当たりにしたのは、効率性でも創造性でもなく、“支配欲”によって運営される組織の実態だった。
ザッカーバーグの“王様プレイ”と企業文化の腐敗

CEOマーク・ザッカーバーグ氏にまつわるエピソードの数々は、彼を単なる天才エンジニアではなく、“社会性なき王様”として描き出している。プライベートジェットでのボードゲームで部下が「わざと勝たせる」、ゲーム中にズルを咎めると怒る。こうした態度が、そのまま企業全体の意思決定にも反映されていたという。
本来なら経営判断に必要な情報共有や議論は省略され、CEOの思いつきが、そのまま国連の演説やグローバル政策になっていく。 たとえば「難民にインターネットを提供する」と演説で口走ったザッカーバーグ氏の一言により、現場が混乱し、無謀なプロジェクトが始動。しかし最終的には、「難民は金を払えない」という理由で頓挫。これが“グローバルビジョン”と称される企業の姿だった。
SNSが“民主主義の敵”となるメカニズム

本書で最も衝撃的なのは、Facebookが中国政府のために構築したとされる広範な監視・検閲システムだ。中国政府は、Facebook上の通信内容や投稿データをキャッシュ経由で傍受可能にし、香港や台湾の独立派、報道の自由運動に対する弾圧に利用していたとされる。
Facebookはこうしたシステムの存在を表向きには認めておらず、議会や報道機関に対しては一貫して嘘をつき通してきた。にもかかわらず、この行為には何の社会的責任も取られていない。むしろこうした行為を可能にする土壌。つまりプラットフォーム企業の“国家超越性”と説明責任の欠如こそが、現代のSNSが抱える最大の問題だ。
セクハラ、業績評価、そして沈黙を強いる構造

Facebook内部の腐敗は技術や経営判断にとどまらない。ウィン=ウィリアムズ氏は、グローバルポリシー責任者として多忙を極める中、カプラン氏による執拗なセクハラにさらされる。第二子出産後の出血性ショックで集中治療室に入院中にもかかわらず、「返信がない」という理由で業績評価を下げられたという。
さらに問題なのは、この行為を知っていた他の幹部たちが「黙って耐えろ」とウィン=ウィリアムズ氏に強要した点である。これは、単なる“個人のハラスメント”ではなく、組織ぐるみの沈黙の合意だ。この構造は、社外からの批判にも通じる:反論は許されず、都合の悪い意見は排除される。
利益のために社会の声を“最適化”する危うさ

Facebookの根本的な問題は、「人をつなげる」という建前と、「収益を最大化する」という実態とのギャップである。アルゴリズムは人々を分断し、炎上や怒りを優先して可視化する。なぜならその方が「エンゲージメントが高い」からだ。
つまり、Facebookが最も評価するのは「ユーザーの幸福」ではなく、「注意の総時間」であり、その中身が対立やヘイトであっても問題視しない。SNSが社会インフラである以上、そこに企業としての倫理的責任や“公共性”が問われるべきである。
なぜこの告発が“危険”なのか?

Meta社はこの本の出版中止を求め、プロモーション活動の差し止めも要求している。つまり、この書籍が公開されること自体がMetaにとっての脅威なのだ。企業としてのダメージだけでなく、「告発者が次に出ることを恐れる文化」を変える引き金にもなり得る。
結論:SNSは“つながる道具”である前に、“問われるべき力”である

『Careless People』は単なる元幹部の暴露本ではない。これは、テクノロジーが政治・社会・倫理とどう向き合うかを問う“現代の黙示録”である。
我々は今、SNSに何を求めているのか?利便性か、透明性か、それとも責任か?この問いに対する私たちの姿勢こそが、次の10年のデジタル社会を決定づけるのかもしれない。