「苦すぎて食べられない」その先にあった驚異の世界

私たちは普段、味にそれほど強い危機感を抱くことはありません。多少苦くても、「薬っぽい」と済ませる人もいるかもしれません。
しかし、ドイツの研究チームがキノコから発見した「オリゴポリンD」は、その常識を軽々と超えてきました。わずか0.158グラムでプール全体が苦く感じるというレベルの強烈な苦味。これまでに科学的に記録された中で、最も高い苦味活性を示した物質です。
この発見は単なる「ネタ」や「味のトリビア」にとどまらず、生物進化、味覚の神経科学、応用生化学という多分野に跨る革新的な意味を持っています。
苦味の受容体は、人類より古かった

人間は「苦味」を約25種類のTAS2R(苦味受容体)で感じ取ります。
このセンサーは舌だけでなく、喉・肺・腸・脳・精巣にまで存在していることが近年判明しており、味覚というより“生体セキュリティシステム”に近い構造を持っています。
驚くべきはこの受容体の歴史です。TAS2Rは、およそ5億年前には脊椎動物にすでに存在していたとされ、これは地球上に種子植物が登場するより3億年も前。つまり、植物の苦味に反応する前に、菌類や微生物に対応するセンサーとして進化していた可能性があるのです。
その進化の鍵を握る存在こそが、今回の主役であるAmaropostia stipticaというキノコでした。
Amaropostia stiptica:「苦い棚板」の異名を持つ謎多き菌

Amaropostia stipticaは、ヨーロッパや北アメリカの森林に自生する非食用のキノコで、英語圏では「Bitter Bracket(苦い棚菌)」と呼ばれています。
見た目は地味な木材腐朽菌で、腐った倒木などに棚板状に張り出して生えます。食用にはされていませんが、その苦さは古くから知られており、自然観察者たちの間では「とても舐められたものではない」と語り継がれていました。
しかし、その苦味の正体は長らく不明。いくつかの苦味成分が報告されてはいたものの、それが人間の味覚センサーにどう作用しているかの詳細は未解明でした。
ドイツの研究者が成し遂げた「味覚誘導分離」

ミュンヘン工科大学を中心とする研究チームは、2020年に採取されたAmaropostia stipticaを分析対象に設定し、「Taste-Guided Isolation(味覚誘導分離)」という方法で未知の苦味成分を探索しました。
この手法は、ヒトの苦味受容体(TAS2R)の反応をガイドにして、物質を化学的に分離するというもので、言い換えれば「人間の味覚を使って化学物質を逆引きする」画期的なアプローチです。
分析の結果、以下の6種類の化合物が確認されました:
- 既知:オリゴポリンA、オリゴポリンB
- 新規発見:オリゴポリンD、オリゴポリンE、オリゴポリンF
たった0.1マイクロモル:最強の苦味「オリゴポリンD」

それぞれの化合物をヒトTAS2Rに適用したところ、全てが複数の受容体を活性化することが確認されましたが、最も顕著な反応を示したのがオリゴポリンDでした。
なんとこの物質、わずか0.1μMの濃度で苦味受容体を活性化。これは食品科学の世界で言えば、「激辛」どころではない、「激苦」ならぬ「極限苦」のレベル。
例えるなら、オリンピック用プール(約250万L)の水に、たった0.158グラムを混ぜただけで「うわ、苦い…」と感じる。この計算が現実のものであることは、科学的に証明されました。
苦味は毒のシグナル?

多くの人が「苦い=毒」と思いがちですが、実際にはそれほど単純ではありません。
たとえば、テングタケ(Amanita muscaria)は強いうま味を持つにもかかわらず、イボテン酸やムッシモールという神経毒を含む致死性の毒キノコです。反対に、今回のAmaropostia stipticaのように、苦すぎて食べられないが毒性は確認されていないという例も存在します。
この現象は「毒と味覚のミスマッチ」とも呼ばれ、味覚が100%安全性の指標にはなりえないことを意味しています。味の強さ=危険度の強さとは限らず、「苦味」も単なる進化上の“マーカー”に過ぎない可能性があるのです。
生物はなぜ苦味を感じるのか?進化の観点から

PNASに掲載された研究によると、TAS2R受容体の種類と感度は、動物ごとに大きく異なるとされています。
草食動物は特定の毒草を避けるために受容体の数が多く、肉食動物や雑食性動物は比較的少ない傾向があります。
研究者たちはこの違いから、「苦味は捕食者との共進化の結果」であると推測しています。
つまりキノコや植物は「苦い=まずい=食べられない」という味を出すことで、捕食者に「これはやめておこう」と学習させてきたのです。
Amaropostia stipticaのオリゴポリンDも、そのような生存戦略として自然界に生み出された忌避物質かもしれません。
応用可能性:食品科学から害獣対策まで
この極端な苦味が応用できる分野は広がっています。
✅ 食品業界:

- サプリメントや薬の苦味を軽減する「マスキング技術」の基礎研究に
- 苦味のしきい値を計測することで、「味の最適化」にも活用可能
✅ 医療:

- 高齢者や乳幼児の「誤飲防止」につながる苦味添加薬剤の開発
✅ 農業・環境対策:

- 害獣避けや作物の食害防止に苦味物質を活用する研究も進行中
まさに、苦味は“無駄な味”ではなく、進化が生み出した複雑かつ有益なツールであることが明らかになってきています。
まとめ:最強の苦味は、人類の味覚に問いかける

- Amaropostia stipticaから史上最も苦い物質「オリゴポリンD」が発見された
- わずか0.158gでプール全体を苦くするという驚異の濃度感度
- 苦味は毒のサインにとどまらず、生物の進化戦略の一端を示す可能性
- 今後の応用研究によって、苦味は“役に立つ味”として再評価されるかもしれない